名月 八
弄堂に蔓延る連れ込みの小部屋は、花灯の紅い光にぼんやり染まっていた。
籐製の榻(ベッド)に全裸で寝そべっていた少年が、うっと呻いて、蒋(ジェン)の手の中で呆気なく果てる。
「なんだ」
拍子抜けしてつぶやくと、少年がごろりと仰向けになり、ねだるように脚をひらく。指に唾液をからめて尻奥をさぐりつつ、蒋は珍しい事もあるものだと訝しく思った。
年頃なのもあるけれど、少年はどちらかといえば淫奔な質だった。締まり具合から長く使っていないことが窺えたが、そうかといって、女と遊んでいた訳でもないらしい。
解すようにゆっくりと蠢かせながら、すらりとした白い脚を肩に担ぎ、節くれだった太い指を一本、根もとまで埋め込む。
「ああ……」
少年が眉をよせ、苦痛とも悦びともつかぬ貌をする。
眺め下ろしながら、蒋は、下腹に情欲がきざすのを感じた。
少年の躯はしなやかで、体毛の薄い白い肌は匂うような艶をおび、女とはまた違う凄まじいような色香がある。しかし男色でもない蒋を欲情させるのは少年の落差だ。冷たい貌が悦楽に歪み、精密機械のような躯があられもなく悶えるさまは、この上なく淫らだった。
蒋は、袖にされた水夫を頭の隅に浮かべて気の毒に思い、少年に声を掛けられた酒場でのことを思い出して、ひとり含み笑った。
二人は重慶で知り合い、上海まで旅をしたのだった。とは言っても、べったり道連れになっていた訳ではなく、上海へ向かう蒋の前に、時おり少年があらわれるというふうだった。それでも山賊と戦ったり、賭場でいかさまをやって追われたり、酒を呑んで遊んだり、それなりに思い出はある。
少年が薄く唇をあけて淫楽に耽っている。
「気持ちいいか、麗猫(リーマオ)」
蒋はくすりと笑い、添い寝しながら愛撫を続けた。
麗猫というのは、蒋がつけた徒名だ。普段は用心深く無愛想だが、発情するとふいと誘いをかけてくる。
名前も素性も一切明かさず、躯を重ねても懐くわけでもなく、快楽だけを貪って、涼しい顔でいなくなる。そんな行動が気ままな野良猫のようで、勝手にそう呼んでいるのだった。
きれいな鎖骨にかるく歯を立て、尻奥をさぐる指を増やすと、少年がぶるっと震えて甘い声をだす。薄ら汗を浮かせた白い貌はぞっとするほどなまめかしく、腹の下で蒋の男がじわりと結実する。
普通の男でさえその気にさせるのだから、その手の趣味を持った男たちの目を釘づけにして、垂涎の的になっていることなど、蒋には容易く想像できた。
一月ほども前であったか、少年が実業家風の中年男に肩を抱かれて、南京路のパークホテルから出て来るのを見かけたことがある。その手合いの男だと察しはついたが、少年が気に入っているのなら咎めだてするつもりはない。だが、飢えた様子が気になった。
「麗猫、あれどうした。あの金髪の親爺。つき合ってんじゃねえのか?」
少年が、なんのことかというふうに薄目を開ける。硝子玉のような無感動な目も、情事の間だけは素直に欲求を映しだす。潤みはじめた翡翠色の目は、淫楽を邪魔されて不機嫌そうだ。
「ほれ、パークホテルから一緒に出て来た、気の弱そうな、ひょろっとした――」
ああ、と少年が思い出したようにうなずき、
「ちょっと遊んだだけ」
つまらなそうに吐き捨てる。
「おまえ、まさか、遊びで売りをやってんじゃねえだろうな」
「うッ……売りはしてないけど、しつこい時は銭を払えって言う。目玉が飛び出るような額をさ」
溜息まじりに言って、少年が低く笑いだす。
「この前さ。本当に銭を持ってきた莫迦がいてさ。可哀相だから寝てやったよ」
「銭を取ったのか」
「寝てやったんだから、いいだろう」
「淫売みてえなこと、するんじゃねえって言っただろう」
「おれがくれって言ったんじゃない。勝手に出してくるんだから、しょうがないだろう」
せせら笑う綺麗な貌を見つめ、蒋は溜息をついた。
(自堕落なんじゃない。すべてが退屈を紛らわす遊びなんだ)
旅をしていた頃は、こんなではなかった。いつもどこか緊張していて、懸命になにかを探しているふうに見えたし、追われているように感じたこともあった。
だが上海に来てから、することがなくなってしまったかのように、蒋には思えるのだ。
「もう餓鬼じゃねえんだから、ちっとは先のことを考えろ。バーテンの方は、まだやってんのか?」
少年が、面倒臭げにうなずく。愛徳華路の弄堂にある外国人向けのバーで、少年はバーテンダーをやっている。ちょっかいを出してくる男たちは、店の客のようだった。
「暇潰しにしちゃ、続いているようだが、面白れえか?」
「他にすることねえもん」
「やりてえ事とか、ねえのか?」
「無いけど」
「欲しいもんとか、なんかあるだろう」
「銭」
「銭じゃなくて、もっと別の……」
蒋は言葉を探した。不思議そうに見上げる澄みきった翡翠色の目は、夢見ることなく薄汚い現実だけを映している。
(おれとこいつは、どこか似ている――)
善悪の区別をもたぬ無垢な瞳に見入ったとき、蒋の胸は詰まった。
日露の兵に志願して小倉から大陸に渡り、絶望して脱兵した。それでも当初は、何か目的があったような気もする。しかしやがて薄れ、何の為に生きているのかも分からなくなって流されるまま彷徨い続けた。過ぎていった三十年の月日を今さら悔やむつもりはないが、まだ若い少年にこれからの長い月日を自分のように生きて欲しくはなかった。
「好きな奴はいねえのか? 所帯を持ちてえとか、そんな女はいねえのか?」
少年がそれどころではないというふうに腰を揺すりだす。蒋はやれやれと張りつめた若い雄に手を添えた。
「おまえみたいな奴はな、酸いも甘いもかみわけた度胸の座った年増が向いてんだ。小便臭い小娘ばっか相手にしてないで、試しにいっぺん付き合ってみたらどうだ」
「老太婆なんか……うッ」
少年が躯を硬直させ、温い体液をほとばしらせる。弛緩してゆく若い躯から指を抜いて、蒋はくすりと笑った。
「年増の色気もわかんねえような餓鬼は、おっさんに遊んで貰うしかねえか」
背を上げて少年を仰向けにし、青白い内股を左右に大きく開く。
仰け反る白い首に付けられた太い黒革のチョーカーが、さらけだされた裸体のただ一点を隠しているようで目を引く。飾りなのか、願掛けなのか、外したところを見たことはないが、鈴でもつければまさに猫に鈴、と愉快な気持ちにさせられる。しかし当の少年は、首輪に関してひどく神経質で触れると不機嫌になるのだった。
「早く」
しどけない格好のまま待たされていた少年が、薄目をあけて催促する。
「がっつくな。おっさんはな、気が長げえんだ」
チッと舌打ちする少年に、にっと笑みを返し、じわりと腰を進める。
秀麗な貌が、わずかに歪む。熱くて狭い肉の内を慣らしながらゆっくりと押し広げ、中程まで入ったところで覆いかぶさり一気に貫く。
「ああ…」
少年が湿った声を上げてしがみついてくる。
蒋の脂肪の乗った背中一面に彫られた唐獅子の彫り物が、二人の交わりを鮮やかにする。黒獅子という徒名の由縁は、この彫り物である。
「いいか?」
頃合をみてゆったり動きだすと、少年が蒋の太い胴に脚を絡めて、気持ちよさそうにうなずく。
(どうゆう育ちをしたのやら……)
殺しの腕も、情交に慣れた躯も、どれ一つもまともではない。
だが、自分には、どうしてやることもできないのだ。少年を抱くたびに、蒋はそんな自嘲にとらわれる。人並な幸福を見つけて欲しいと願っていても、現実は少年の腕を利用し、闇へと足を引っ張っているのだ。
(風変わりだが、それなりに素直でかわいい面もある。こいつを心底受け入れて、大事にしてくれる奴がいりゃあいいんだが……)
願うような気持ちで、少年を見つめる。
「麗猫。女でも男でも、どっちでもいいから、本気で惚れた奴ととことんつき合ってみろ」
「いねえもん」
少年がつまらなそうに吐き捨てる。
蒋は動きを止め、
「莫迦野郎ッ! 行き当たりばったりで遊んでっから、いねえんだ!」
どすを利かせて怒鳴った。
「なんだよ。やってる途中で説教すんなよ、年寄り臭せえ」
「なんだと色餓鬼、もういっぺん言ってみろッ!」
少年がうんざりしたというふうに溜息をつき、太い首に腕をまわして甘ったれた声で囁く。
「なあ、やってよ蒋。説教なら後で聞くからさ」
蒋が舌打ちして動きだし、少年は浸りこむように目を閉じた。
確かに、自分に説教してくれる人間はそういない。いざとなったら鬼神のごとく凄まじい気勢を吐くところが気に入っていて、蒋のことは認めているし、仕事の相手としても悪くない。
けれども少年の頭の中は、ゆうべ黄包車で出逢った男のことで占められていた。
男の暗い瞳に見入ったとき、吸い寄せられるような奇妙な感覚を味わった。
(発情したのはその所為か? 最近そんな気、起きなかったのに……)
蒋に突き上げられながら、少年は男と性交する図を想像した。すると、なにやら興奮した。
「もっと!」
蒋の肩にしがみついて激しく求める。
蒋の逞しい律動が、男のそれと重なった直後、少年は蒋の背中に爪を立て、幻の中で果てた。
「なにを考えている?」
蒋は長い口づけを終え、ひりひり痛む背中を榻に横たえた。
少年は口づけしたのも気づかぬふうに、天井に吊られた紅い花灯をぼんやり見ている。
「えらく気が入っていたようだが、気になる奴でもいるのか?」
蒋が顔を寄せると、少年がすました顔で横を向く。
あられもなく乱れたことなど、何所吹く風といった風情はいつものことだが、今夜はそこに、心ここに在らず、というのが加わっている。爪を立てたことも、いつに無いことだった。
「おまえは、頭はいいが肝心なもんを分かってねえな」
謎掛けのように言ってやると、少年がちらりと目を向け、興味ありげな顔をする。
「心だ」
蒋は言ってやった。
少年がせせら笑ったが、蒋は香烟をくわえて一服つけた。
「そいつが分かんねえ奴は、いくら頭が良くても上等な人間とは言えねえな」
「ふうん。なら、あんたはそれが分かるのか?」
「分かるさ。少なくとも、抱いた相手を悦ばせようって心はある」
「おれは、あんたを悦ばせてやったんじゃないの?」
「それは心じゃない。てめえが悦くなりたいだけだ。誰彼かまわず悦がっているうちは、馬や牛とおんなじだ。けれど世の中、そういう奴の方が多い。躯と一緒に心を抱いてやるのが、人間さまってもんなのに情けねえもんだ」
「おれが馬や牛だってのか」
「そうだ。空飛んでる鳥でさえ、一度決めたら添いとげる。ふらふら遊びまわっている奴は鳥以下だ」
「だったら、あんたも鳥以下だね」
「だから、惚れた奴とやれって言ってんだ」
蒋が腕をたおして仰向けになる。
少年が首をもたげてのぞきこんできた。どことなく新しい玩具を見つけた仔猫のような面つきだ。訊こうか訊くまいか迷っている、そんな風である。
「なんだ?」
水を向けてやると、
「惚れる、ってどんな感じ?」
少年がぼそっと訊いて、蒋はくわえ香烟のけむりに噎せた。
少年が頬を赤らめ、ぷいと背中を向ける。蒋はやれやれと腕を枕に向き直った。
「いいか麗猫。惚れるってのはな。そいつの為に、何かしてやりてえって思うことだ」
「好きってのと違うのか?」
「まあ、似たようなもんだが、てめえの命より、そいつの方が大事だってことだ。分かるか?」
乗り出した蒋をちらりと横目で見やり、少年が背を向けたまま曖昧にうなずく。
「難しいことじゃねえんだぞ。自然にそうなるもんなんだ。惚れた相手の喜ぶ顔が見られりゃ、そんだけで生きているのがうれしくなる。銭じゃ買えねえお宝よ」
少年が、蒋の口からひょいと香烟を抜きとり、怪訝な面つきで喫う。きれいな横顔に感情の揺れは見当たらぬ。
(どうなることやら?)
見守るように眺めつつ、蒋は、男は味気無いと思った。いくら濃密に交わろうと、終わってしまえばただの男同士に戻ってしまう。男女であれば、しみじみした余韻に心を慰め合うこともできるだろうに――。
(いや、惚れてしまえば同じか)
そんな事を止めどもなく思い巡らせたとき、少年がひょいと蒋の唇に香烟を戻して榻から下りる。
「行くのか?」
「うん」
さっぱりした声で返事をし、備えつけの洗面器に湯をそそぐ。手拭いを濡らして躯を拭き、さっさと服を着る。
「じゃあな」
背中で言い捨て、ふり向きもせずに出て行く。
蒋は苦笑しながらふうっと煙を吐き、ごろりと仰臥した。花灯の赤い房飾りが隙間風に揺れている。
「さてと……」
香烟を揉み消し、むくりと起き上がる。卓子から日本刀を取って鞘をはらい、刀身をかざして意識を集中させる。
長屋から回収した死体の、縦に断ち割られた頭部を眼の奥によみがえらせた。
(示現流か――)
得物が中国刀でなく、よく手入れされた日本刀の業物であったら、胸部までも断ち割られていたに違いない。
蒋は刀を上段に据えた。ゆうべの男の幻影を眼前に描くや、鋭い気合もろとも斬り下ろした。
二章「飛来」へつづく

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